カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2014年5月 3日 (土)

~ 日本人よ 胸を張りなさい」 ~

蔡焜燦さん(87) 旭日双光章に輝いた台湾歌壇代表

http://sankei.jp.msn.com/world/news/140429/chn14042907570003-n1.htm

このたびの、旭日双光章の受賞を心よりお喜び申し上げます!

あえて説明など要らぬ「台湾人と日本精神」に書かれた文章を

読んだときに、胸が熱くなりました。

台湾には、日本が今こそ学ぶべき

「正しい日本史がある」

どうぞ台湾に日本の正しい歴史を学び

自信と誇りを取り戻していただきたい。

そして誇りある日本が、アジア地域の安定と

平和を担う真のリーダーたらんことを願う。

日本人よ胸を張りなさい!

そして、親愛なる許文龍氏の発言にも

胸を熱くします!

「戦前の日本の台湾統治に対し謝罪する

必要などありません。戦後の日本政府は、

深い絆を持ちながら世界で一番の親日

国家である台湾を見捨てました。

謝罪すべきはむしろ戦後の日本の外交

姿勢です」

決して浮かれた気分で台湾出張に行っては

ならないのです。反省!

Tw

昨年頂いた、CHIMEI手帳と共に。

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2009年5月 9日 (土)

風の男 白洲次郎

風の男白洲次郎
新潮文庫
青柳恵介/著

プリンシプルのない日本
新潮文庫
白洲次郎/著

Shirasu

明治35年生まれ
大正8年英国留学
大正14年ケンブリッジ大学卒(英国ではベントレー、ブガッティを乗り回す)
昭和20年「終戦連絡事務局」参与
昭和21年 同 次長 日本国憲法受領に同席
昭和23年貿易庁初代長官
昭和26年サンフランシスコ講和条約全権委任団に同行

日本人離れした風貌に身長180cm超の堂々とした体格。

「戦争に負けはしたが、奴隷になったわけではない。言うべきことは言わなければならない」

時のGHQから「もっとも従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた男

GHQホイットニー将軍から

「白洲さんの英語は大変立派な英語ですね」と言われ、

「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と切り替えしたとか。

正に痛快!!

理事長をしていた軽井沢ゴルフクラブにて、

台風の後始末で奮闘しているときに、「再開させろ!」とごねた某代議士に向かって、
「とぼけたことを言っていると今度の選挙では落選するぞ!」と追い返した。

運転手に靴ひもを結ばせている客に対して、
「てめえは手がねえのか」

青柳恵介氏

没後、軽井沢ゴルフクラブのキャディさんたちに思い出話を聞くと、
「本当にやさしい方だった」と。全員が涙をこらえ話が聞けなかったと。

トヨタ自動車の豊田章一郎に「少しは車のことを勉強しろよ」と言い、当時のソアラの欠点を指摘したとか。さらに白洲は、自分のポルシェ911を東富士試験場に乗り込みトヨタの技術者に「これを分解してソアラを作るときの参考にしたまえ」と言って置いてきたとか。

英国留学時代の1926年、パリ~シャルトル(90km位らしい)をブガッティにて1時間掛からず。同乗されていた方の記憶だと時速100マイルは超えていたらしい。しかも当時は未舗装だったらしい。まさに車に対する見識は並大抵のものじゃなさそうです。

遺書らしきもの「葬式無用 戒名不要」

彼に比べれば俺なんて「ごみ以下」だな。。。。

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2008年12月24日 (水)

甦った空

甦った空 「ある海軍パイロットの回想」

岩崎 嘉秋

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ISBNコ-ド 978-4-16-775323-8

http://www.bunshun.co.jp/book_db/7/75/32/9784167753238.shtml

氏は、九十六式陸攻を駆って重慶爆撃で初陣を飾り、マレー沖海戦、ラバウルと転戦。
魔の索敵コースと言われたガダルカナル島C策敵線哨戒任務をこなす。

昭和18年6月、空輸部隊に転勤となった後はゼロ戦搭乗員の輸送、最前線への物資空輸そして傷ついた将兵の救出と目まぐるしい任務をこなした。

フィリピン・ツゲガラオの救出作戦の際の氏の言葉を引用させて頂くと、

「各自の荷物を捨てて欲しい!、俺は手荷物の代わりに一人でも多く、仲間を乗せて帰りたいのだ」

これに対して一斉に全員が「機長!そうしてください。機長の言われるとおりに。。。」

氏は戦後、海上自衛隊にて、ヘリコプターに機種変更した後、民間へ転出。その後も多くの山岳遭難や人命救助に貢献をされた。

氏は戦争で多くの命を落とした同僚への償いの気持ちを人命救助という仕事に捧げた。

ヘリコプターによる飛行時間 9,734時間20分

本書はこの種の書籍にありがちな自画自賛の戦記を語るのではなく、淡々と調子で書き綴られています。

あとがきに「救うものは救われる」と。。

敗戦濃厚な時期に、丸腰の輸送機DC-3で敵の攻撃を逃れるために夜間で天候の悪いときを狙っての計器飛行がいかに大変か身をもって体験します!

Bashi

フィリピンのクラークを飛び立って漸くバシー海峡にたどり着きます。水平儀と高度計だけが頼りです。

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明け方、漸く台湾が見えてきますが、雲が多く気流も乱れておりかなり揺れます。思い切って高度を5,000ftまで下げますが視界も不良です。高雄、屏東上空あたりでかなり神経を使います。

18l

漸く台南です。18Lに降りろと言われ、いったん北側にやり過ごしてから風に振られながらぐるりとまわってきました。DC-3には十分すぎる長さの滑走路を使って無事ランディング!

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2008年12月 1日 (月)

男装の麗人 川島芳子とは

妖花川島芳子伝 (楳本捨三著、秀英書房 1984年)

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清朝王室のれっきとした王女として生まれ、日本人志士川島浪速の養女となり、亡国清朝の復辟を計るという巨大な夢を抱いた女性。父親の清朝粛親王の第14王女として生まれ、生名は愛新覚羅 顕玗。粛親王は自分の息子たちが王子としての資質に欠けており彼女が一番「見どころがある」と信じていたとか。

辛亥革命、中華民国建国、そして満州国建国。清朝の復辟のため、関東軍に協力し、「日本軍に協力する清朝王女」と呼ばれるものの、満洲国が清朝の復辟ではなく日本の傀儡国家に過ぎないことが明らかになると、日本軍(関東軍)の満洲国での振る舞いや日中戦争などを批判するように。

やがて終戦を迎え、中国国民党軍に逮捕され、漢奸(国賊、売国奴)として、1948年3月25日に銃殺刑に処。

ところが、川島芳子は生きていた?

http://www.jiji.com/jc/zc?k=200811/2008111500254

奇妙な縁に「心安らぐ思い」=川島芳子生存説に山口淑子さん
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200811/2008111800673

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2008111602000092.html

処刑後の写真を見ると、顔がひどく痛んいて、替え玉であるという噂が。。
金の延べ棒5本と引き換えに刑を逃れ、以後は国内で軟禁状態にあったという説も。

http://www.1n0.net/Article/UploadFiles/200505/20050502084839809.jpg

漢奸であるが故に、後頭部から銃殺刑に処された為、顔が無残な事に。。

もし、生きていたのであれば「何か語って欲しかった」ですね、彼女も被害者だったんですから。。暫くは、川島芳子にハマりそうです。

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2008年5月 8日 (木)

最後の撃墜王

http://www.bk1.jp/product/02796824

Gekitui

碇義朗/著
光人社 (ISBN:978-4-7698-2542-5)

第343海軍航空隊戦闘第301飛行隊長 管野 直(なおし)
昭和20年8月1日、屋久島上空にて消息不明。23歳。

運命の日、8月1日8時12分20機を引き連れて出撃。7月24日に無くなった鴛淵隊長、武藤少尉の弔い合戦。屋久島上空高度5,000にB24の編隊を発見。しかし不運にも攻撃直後に、

「ワレ、機銃筒内爆発(銃身内で機銃弾が爆発する事故)ス、カンノ一番」
(これにより、主翼に孔が開き、空戦は不可能)

すぐさま護衛に付いた僚機に対して、
「俺に構わず、攻撃に行け」
この時の姿が、最後となった。

飛行学生時代に管野デストロイヤーのあだ名が付くほど練習機を壊した男。しかし公認撃墜記録42機(うち共同撃墜24)343空以前の個人撃墜記録30を合わせると72機。十分に元をとって大きなおつりが返ってきた。

「僕は特攻はかけない。敵を攻撃し絶対に生き延びて反復攻撃をくり返す自信があるよ」

相手のパイロットの顔が恐怖に歪む姿が見えるくらいに接近して攻撃をするスタイル、時には、自機の零戦の主翼でB24の尾翼をもぎ取ったことも。。

石川啄木を愛した文学青年、海軍なのに船酔いする隊長。移動の度に持ち歩く私物入れの箱には「故海軍少佐管野直の遺品」と書いてあったとか。(自ら戦死後1階級昇進を予定?)

大型機に対する攻撃法として、背面急降下から一撃離脱を考案。敵機のコクピットもしくは翼の付け根を狙い撃ち、直前で敵機をかわすという神業の持ち主。

今の平和な時代において、想像もつかないこと。20代の若者が命を賭けて国を守るという極限の時代に生きた人たち。何とも言いようのない気がします。もっと頑張らないとならないです。そして部下に信頼されるということ。強力なリーダーシップを発揮するということ。階級は上でも、百戦錬磨のベテラン搭乗員を纏める能力。今の会社においても何か。。。。「自分の部下がバカにされたら、飛行機に乗ってまで、その相手を殴りに行く隊長」しかも若干23歳でそれが出来てしまう。すごいの一言。


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2008年4月20日 (日)

査察機長読みました

Sasatu
http://www.shinchosha.co.jp/book/477601/

台湾出張直前に、偶然本屋で見かけて購入しました。ストーリーはいつもの副操縦士江波君は出てきません。成田-ニューヨーク間で査察を受ける村井機長が主人公です。最後の言葉が良いです!「機長は後ろを見て飛べ」うーん、判るような気がする。お客さん第一ですからね。フライトシムもそう思って飛ばしましょう。そういう私は、成田-ニューヨークを飛んでみました!

トロントセンターが呼び出してくる直前にガス欠に気が付きまして、急遽空中給油しました。左右補助タンクを満タンです。(情けない)

Gass

無難にJFK-4LにILSで着陸しました。査察不合格ですね。ガス欠ですから。どうもとばし過ぎたのがいけないみたい。マッハ0.93で飛び続けましたから。

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2008年1月 2日 (水)

一歩の距離

一歩の距離―小説 予科練
城山 三郎【著】角川文庫

Ippo

わずか15歳にして「空で死ぬ覚悟」を決めた予科練少年飛行兵達。しかし戦況すでに劣性となり、訓練のための飛行機さえもままならない状況。そして運命の一歩が。。。

「全員目を閉じよ。よく考えた上で、志願する者は一歩前に出るように」

一歩が踏み出せなかった少年の葛藤、そして一歩を踏み出した少年達の行く末は。。

先日、久しぶりにYさんとお会いしました。大正生まれで海軍兵学校出身、終戦後東大法学部に入学されたというこのお方は当社の元顧問をされた方です。以前にゴルフをご一緒したときの話。スタート時間よりかなり早めに待っていたら、いきなり「帝国海軍の5分前の原則」をご教授頂きました。

「早すぎてもいけない、遅すぎてもいけない」なぜなら爆撃機と戦闘機の速度差があるために、あらかじめ決められた集合地点に時刻通り到着するのが大切だと。

最近すっかりお年を召しましたが、まだまだご健在です。「でもな、あと一年終戦が遅かったら特攻に出てたと思うよ、そうしたら生きていなかったな、まだ俺は一人で飛べるだけの訓練を積んでなかったからね」

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2007年11月17日 (土)

落日燃ゆ

http://www.amazon.co.jp/%E8%90%BD%E6%97%A5%E7%87%83%E3%82%86-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%9F%8E%E5%B1%B1-%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4101133182

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広田弘毅

明治11年2月14日生まれ。東京帝国大学卒後外務省へ入省。外交官を経て昭和8年外務大臣就任。一貫して戦争回避に努め「共和外交」を推進する。特に早期から対ソ中政策を重視し「私の在任中に戦争は断じてない」と演説し、あの蒋介石から「広田外相の演説に誠意を認め、十分にこれを理解する」言わせた。

昭和11年総理大臣就任。昭和11年内閣総辞職、12年近衛内閣の外務大臣就任。

終戦後A級戦犯として逮捕。広田は無罪を主張しなかった。昭和23年12月23日、巣鴨プリズン内で絞首刑。文官唯一の死刑判決を受けた。
この判決に際して、オランダのベルト・レーリンク判事は「広田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは疑う余地が無い」と。。。

あの時代、最後まで外交努力による戦争回避、早期終戦を目指した広田弘毅。ソビエト、中国を相手に外交という平和的手法を貫き続けた男。絞首刑直前に「天皇陛下万歳」と叫んだ板垣征四郎(陸軍大将・支那派遣軍総参謀長)、木村兵太郎(陸軍大将・関東軍参謀長)

広田はそれには加わらず「万歳」ではなく「マンザイ」と言い放った。。

昭和23年12月23日午前零時30分絞首刑執行

広田の意思に反して、戦争へと導いた人間とそれを阻止しようとして「外交」という手法で懸命に戦った広田が皮肉なことに同じ日に処刑されたのです。しかも罪状は「非人道的な行動を黙認した」と。。。

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2007年10月29日 (月)

真珠湾作戦回顧録

http://www.amazon.co.jp/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E4%BD%9C%E6%88%A6%E5%9B%9E%E9%A1%A7%E9%8C%B2-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%BA%90%E7%94%B0-%E5%AE%9F/dp/4167310058/ref=pd_sim_b_shvl_title_1/250-0330383-2670615

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その時、いったい何が起きたのか、何故そうなったのか。そして何故に開戦への道を選択しなければならなかったのか。1941年、今から66年前の11月26日、日本の機動部隊は一路ハワイを目指して択捉島の単冠湾を出航していきました。以下本文より抜粋です。

機密機動部隊命令作第1号
1.作戦方針
機動部隊ならびに先遣部隊は極力其の行動を秘匿しつつ布哇(ハワイ)方面に進出
 開戦劈頭機動部隊を以って在ハワイ敵艦隊に対し奇襲を決行し之に致命的打撃を
与えると共に先遣部隊を以って敵の出路を扼し極力之を補足せんとす。
空襲第一撃をX日〇三三〇と予定す。
空襲終わらば機動部隊は速に敵より離脱し一旦内地に帰還整備補給の上第二段作戦
部署に就く。
敵艦隊を攻撃せんとする場合は敵有力部隊と遭遇し先制攻撃を受ける虞れ大なる場合はX日以前と雖ども之を反撃撃滅する。

以下省略

第一次攻撃隊
水平爆撃隊 (指揮官・淵田中佐)九七式艦攻 49機
雷撃隊    ( 同  村田少佐)九七式艦攻 40機
急降下爆撃隊 ( 同  高橋少佐)九九式艦爆 51機
制空隊   ( 同  板谷少佐)零式艦戦  43機

第一次攻撃隊
水平爆撃隊 (指揮官・嶋崎少佐)九七式艦攻 54機
急降下爆撃隊 ( 同  江草少佐)九九式艦爆 78機
制空隊   ( 同  進藤大尉)零式艦戦  35機

戦果(米軍資料)
撃沈
戦艦 アリゾナ、ウエストバージニア、カリフォルニア、オクラホマ
大破
戦艦 ネバダ
駆逐艦 カッシン、ショー、ダウンズ
軽巡 ヘレナ、ローリー
中破
戦艦 メリーランド、ペンシルバニア、テネシー

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2007年10月10日 (水)

機体消失

機体消失 内田幹樹/著 新潮文庫
昨日の出張の際に、東京駅構内の本屋で偶然見つけてしまいました。麻薬と拳銃を積んだセスナ機が台湾を飛び立ち、密輸組織が待つ沖縄へと台風の中を飛行。偶然にも休暇で下地島を訪れていたニッポンインターナショナルエアの副操縦士江波君は当然のごとく事件に巻き込まれていきます!この江波君、内田さんのシリーズに登場する副操縦士。毎回飛行中に機長が倒れて自分ひとりで操縦する羽目になる言ってみれば可愛そうなパイロットです?前作中では、ロンドン-羽田便の機中で2人の正副機長が倒れてしまい、ガス欠寸前の飛行機を何とか着陸させたのですが、その時の精神的ショックから立ち直れず、いまだ休養中の身であるのにまたまた事件なのです。

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個人的には、この江波君好きです!ちょっと照れ屋で女性に甘い、だけど勇気が無いのでいつもチャンスを逃してしまう。なんか自分にそっくりなんてね。内田さんは元全日空のパイロットで、教官時代に過ごした下地島を舞台に小説を書いたそうです。

下地島って此処なんです。
http://map.yahoo.co.jp/pl?p=%B2%BC%C3%CF%C5%E7&lat=24.82524889&lon=125.14751306&type=&lnm=%B2%BC%C3%CF%C5%E7%B6%F5%B9%C1&idx=26

今夏の文庫版発売に当たり、今は無きご主人に代わって奥様が校訂をされたとの事。もう副操縦士江波君に会えないのは残念です。この小説お勧めは、第4章まで読んだ後、台北行きの飛行機に乗って、着陸1時間前ぐらいから第5章を読み始めると超リアルなことになります!

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